「谺に狂う」


鬱蒼と茂る樹々と深い茂み。湿り気のある土の匂い。
それらを全身で感じながら、只々只管歩く。

山に慣れない私には厳しい道程だ。
一歩進む度に頬を汗が伝い、「ひゅうひゅう」と息が漏れる。
けれど降りるわけにはいかない。物見遊山で来ているわけではないのだ。

私は、この山に消えた母を探すのだ。



母は私が幼かった頃、事故にあった。
趣味の山歩きの最中、崖崩れに巻き込まれて……。
残された父と私は、その報告を呆然と受け止めるしかなかった。

今年、私は隣県の大学へと進学する。
父と離れ、家からも離れ、思い出も段々と薄れていくのだろう。
僅かに残る母の記憶も、より朧気な物へと変化していくのかもしれない。

そう思うと、この山に登ってみたくなった。どんな形でもいい、母に関する記憶を持って行きたかった。
だから、私はこの山へと挑んだのだ。
心配そうに見送る父へと別れを告げて。



小川を飛び越え、茂みを掻き分け……。
永遠に続くかと思えた緑の景色が、突如変化する。
開けた空間に出たのだ。

そこには、道中よりも幾らか背の低い草木の群れ。
それと、今にも崩れそうな古い家屋が。

「夢じゃない……よね?」

きっと、人が住んでいたのは随分前の事だろう。
けれど、僅かな希望を抱いてしまう。
もしかすると、母は今でも此処で暮らしているのではないか……と。



……当然、そこに母は居なかった。
おそらく、使われていたのは十年以上前の事。
きっと、もうこの山には誰も居ないのだ。

「……もう帰ろう。父さんも心配してる」

何時しか、夕日で山が赤く染まっていた。
急いで降りないと、暗闇の中で下山する羽目になる。
荷物を纏め、降りようとした。その時。

私は見たのだ。
幼い頃いつも見ていた母の横顔を。
柔らかな笑みと、私そっくりの癖っ毛。
何よりもその優しそうな瞳。
あの時と寸分変わらぬ姿で母が立っていた。
廃屋の向こう、白い花を咲かせる古樹の下で。


そして、その横には。
栗色の髪をした、不思議な女性が。

(あれは誰?)

その人は、ゆっくりと母の手を取り。
幸せそうに笑う母と一緒に、ゆっくりと歩き出す。
何処へ? 山の奥へ。
まるで、最早山の外に未練は無いような確かな足取りで。

「待って、母さ……」

無我夢中で母を追い、走って、走って。
足元が、山道が、ずるりと滑り……。
私は……私は……。 私は……?



「……あら、お目覚めになりましたか」
「このまま目を覚まさないのではないかと、心配しておりました」

「貴方様は、山奥で倒れていらしたのですよ」

「獣に襲われたのか、崖から足を踏み外したのか……」
「脚には、大きな傷がありました」
「出来る限りの手当はしましたが……」

目の前の女性は淀みなく言葉を紡ぐ。
……まるで、全く同じ事を以前誰かに話したかのように。

「申し遅れました。私は、円樹と申します」
「どうぞ、怪我が治るまで養生なさって下さい」

円樹さん。深い緑の瞳が印象的な穏やかな女性。不思議な耳と尻尾を持っている人。
きっと良い人なのだろう。
『遊びに出掛けて』怪我をした私を助けてくれたのだから。

「ありがとうございます、お世話になります」

私は円樹さんにお礼を述べる。
……ところで。
彼女の後ろで微笑む女性は誰だろうか?
私とそっくりの癖っ毛を揺らすその人は、にっこりと笑う。
まるで、「おかえりなさい」と言うみたいに。