「ある使用人の一日」


7時。誰かの声で目を覚ます。
誰の?決まっている。クローディアの。
寝ぼけ眼を擦りながら早足で階段を降りる。
私は2階で、彼女は1階で眠る。
けれど、クローディアの高い声は良く届くから……お陰で寝過ごさずに済む。

「……あ、良かった!起きてくれたのね」
最後の一段を降りた途端に、明るい声が響く。
クローディア。可愛らしい女の子。「淑女」と自分で言うけれど、まだ12歳の幼い子。
私の主人……兼友達。少し変な関係。けれど、クローディアとなら悪くない。むしろ楽しい。
「…………」
そんな事をぼんやりと考えていると、抗議の視線を感じる。
顔を赤く染め、もじもじと身体を動かせながら、何か言いたげで……。
(ああ、そうか……そうだった)
これも日課だ。挨拶の次は朝食……ではなくて、トイレの時間。
ごめんね、と口にしながら、ゆっくりと彼女を持ち上げる。
「……ふふっ、大丈夫よ。今日もよろしくね」
困り顔から一転、楽しそうにころころと笑っている。
いつものやり取りにもそうやって笑顔で応えてくれる彼女に、こちらも自然と笑みを浮かべてしまう。
こういうところも可愛らしいと思う。
「貴族の女の子」というイメージとはちょっと違うけれど、これでいい。これがいい。



8時。朝食の時間。
食事の準備には手間取らない。出来上がった物が本邸から運ばれてくるからだ。
だから、私の仕事は別の部分。クローディアに食べさせてあげる事だ。
彼女の今の境遇は、ある意味では囚人のようだ。家に繋がれ、外出を許されず。
けれど食事や衣服は貴族のそれだ。そこだけは、彼女の父に感謝したい。

まだ温かいクロワッサンを手で千切る。一口で食べやすい大きさに。
「んっ……相変わらずサクサクで美味しいわね」
ベーコンはフォークとナイフで解しておく。スクランブルエッグはスプーンで流し込むように。
「あら、今日はいつもよりカリカリだわ。ふふっ……なんだか得した気分ね」
スープは分ける必要は無い。けれど、決して火傷をさせない注意が必要だ。
「ふーっ、ふーっ……ってそんなにしなくてもいいのよ?私、子供じゃないんだもの」
後はサラダ、そして飲み物を……。
「……ねぇ。あなたはまだ食べないの?」
まだお腹が減っていないから。そう笑顔で伝える。
彼女の気持ちは嬉しいけれど、そういうわけにもいかない。
クローディアにはクローディアの。私には私の立場がある。
……それを率直に伝えれば、きっと悲しむだろう。それは避けたかった。



10時。仕事の時間。
クローディアの身支度を済ませた後は、少し別邸を離れる事になる。
私達の暮らす別邸ではできない事。即ち洗濯や物品の補充。
単純な仕事。けれど、少しだけ気が重い仕事。

クローディアはセルノグラツ家では存在しない事になっている。
生まれていない。存在していない。生活していない。
だから、専属の使用人である私も似たようなもので……。
本邸へ足を踏み入れる。直ぐに使用人がやってくる。互いに挨拶はしない。
手短に用件を伝えて……それで終わりだ。一礼して本邸を後にする。

以前一度「手伝わせて欲しい」と頼んだ事もあったけれど……。
素気無く断られてしまった。余計な事をするな、と視線が語っていた。
急ぎ足で別邸へ戻る。無性にクローディアの顔を見たくなったから。



14時。読書の時間。
クローディアは賢い子だ。頭も良いし、我儘もあまり言わない。
だから私の仕事は彼女の手足となる事と、遊び相手になる事。
「そうね……今日はこの本にしようかしら」
指差す……もとい、「腕指す」先にある本を手に取り、読み聞かせる。

これが私の……私達の日課だ。
驚くべき事に、クローディアは腕を器用に使ってページを手繰る事もできる。
けれど、それでは私が雇われている意味がない。
静かに、あるいは大袈裟に。平坦に、あるいは歌うように。
気恥ずかしさを感じた時もあった。ただ文字を読み上げるだけで良いのかもしれないと。けれど……。
「凄い、凄いわ!」
「この本、以前も読んだ事があるけれど……あなたに読んで貰うと、ずっとずっと楽しい!」
そう言われてしまったら、期待に応えるしかない。

ベッドの上でクローディアが跳ねる。
わくわくした表情で、「もう待ちきれない」と全身が表現していて……。
だから、今日も私は読み上げる。
ただ一人のためだけに。誰よりも大切な一人のために。



20時。入浴の時間。
読書や食事はともかく、トイレや入浴はクローディア一人では決して行えない。
だから私が始めから終わりまで付き添う事になる。
……例え、クローディアが顔を真っ赤にしていても。
「やっぱり、目を瞑って貰うわけにはいかないわよね……?」
心を鬼にして提案を一蹴する。一度試した事はあったけれど、散々な結果になってしまったから。
衣服を脱がすつもりで尻を掴み、湯から引き上げようとして胸を鷲掴みにしたとあっては……

「わ、解っているわ。解っているのだけれど……。」
口籠り、俯き、目を伏せる。トイレも入浴も毎日行っている事だ。
クローディアが私に裸身を晒した回数も、もう百を越えているだろう。
けれど彼女は恥ずかしそうにする。顔を真っ赤にして、これが初めての経験であるかのように。
それはクローディアが淑女だから?それとも、それとも……?
……考えるのはやめよう。風邪を引かせてしまう。



22時。就寝の時間。
「もう少しだけ……ねぇ、良いでしょう?」


困る。とても困る。もうとっくに限界なのだ。
時刻は10時半ば。いつもならもう1階の灯りを落としている時間。
けれど、クローディアはまだ起きている。
私が読み聞かせる物語……その続きをもっともっと聞きたいとねだりながら。

古い古い寝物語なら構わない。胸躍る冒険活劇でも問題ない。
けれど、手に取ったのが恋物語とあっては……。
それも、身分違いの恋。クローディアのお気に入りの恋物語。
ほんの少しだけ過激な描写もある。だから困るのだ。
静かな夜、幽かな灯りの下。好奇心と緊張に頬赤く染めるクローディアの前で。
眠気でも、疲労でもない。全く別の感情が、どくりどくりと湧き上がってしまう。

だから、「続きは今度にしよう」と言うのが精一杯だった。
この想いは閉まっておかなければいけない。
クローディアを大切に想っている。だからこそ隠す。……今はまだ。
年長の家族のように。宥め、諭す。静かな声で、努めて平静に。
優しく賢いこの子なら、解ってくれると信じているから。
「……解ったわ。じゃあ、明日。明日なら良いでしょう?」
……言葉に詰まる。「明日は別の本を」とは言えそうにない。
諦めて頷くと、にっこりと笑う。
……本当に困る。この笑顔を見てしまうと、自分の甘さを叱責する事もできない。

陽の光の下でなら、この気持ちを抑えられるだろうか?それとも……。
明日の私の理性に望みを託し、ベッド近くの灯りを落とす。
「おやすみなさい、また明日」
おやすみ、クローディア。



3時。誰かの声で目を覚ます。
誰の?決まっている。クローディアの。
寝ぼけ眼を擦りながら静かに階段を降りる。
私は2階で、彼女は1階で眠る。
けれど、クローディアの高い声は良く届くから……お陰で聞き逃さずに済む。

「んぅ……っ……」
魘されている。眠りの中。手足をばたつかせながら。
悪夢だろうか?それとも過去の記憶に苦しんでいるのだろうか?
どちらにせよやる事は決まっている。優しく、優しく頭を撫でる。
逞しい父のように、優しい母のように。クローディアにそうしてくれる父母は居ないのだから。
「……ぅ……」
苦しそうな声が消える。眠りが深くなる。もう安心だ。

これが日課の最後。こうしてクローディアの眠りを見守る事が。
時に寝惚けた彼女をトイレに連れて行く事もあるが……今日はその心配はないようだ。
すぅすぅ、と気持ち良さそうに眠り続ける。

数時間後にまで迫った朝に備え、薄闇の中をゆっくりと昇っていく。
また彼女の元気な声を聞ける事を楽しみにして。
今日が終わる。明日が始まる。
きっと良い一日になる。例え何があっても、クローディアと一緒なら。